■もくじ

■鯉の名前の由来って?
■鯉料理のレシピ

     ・鯉のうま煮
     ・鯉こく
     ・鯉のあらい
■健康食品、鯉の薬効
■世界の鯉料理

■鯉に関することわざ
■上杉鷹山と山形鯉
■武田信玄と陣中漬

 

■鯉の名前の由来って
『鯉(こい)』は恋に由来するそうで、『大言海』ではコヒは恋の義としています。また『和訓栞』にも鯉は恋より出でし名なり、『景行紀』にその旨見えたりと記されているそうです。しかし、景行天皇の恋物語に由来する「コイは恋から」という説は信憑性が低いらしい。また、体が肥えているから、味がこえている(旨い)の意からきたともいいます。
一方『魚鑑』には、鯉は河魚の長、鯛は海魚の長なり、又百歳を経る時は龍門にのぼるといへりとあり、さらに、鯉と鯛は対で、小位(こい)、大位(たい)の義なりとなっているそうです。

▲伝景行陵とされている渋谷向山古墳


■鯉料理レシピ
【鯉のうま煮】
材料:鯉の輪切5切れ(1.3kg)に対し 砂糖150g・醤油130cc・みりん70cc・水130cc
@ 鍋に砂糖・醤油・みりんを入れ一煮立ちさせます。
  そこに輪切を並べるように入れ、落とし蓋をして火にかけます。
  火加減は煮立ったときに煮汁が落とし蓋の回りにかかるくらい。
 ―15分〜20分―
A 汁が煮詰まってきたら鍋の回りのほうから水を加えます。
  火加減はそのまま。
 ―15分―
B 輪切の表面に飴色の照りが着いたら出来上がり。
  こわれやすいので気を付けて鍋から取って下さい。
【鯉こく】
材料:鯉の輪切5切れ(1.4kg)に対し味噌250g・砂糖35g・水
@ 大き目の鍋に輪切を並べるように入れ、たっぷりの水を入れ火にかけます。
  沸騰したらすぐに“とろ火”にしてじっくりと時間をかけて煮込みます。
  1時間・・・以上は煮込んで下さい。
  3時間・・・だいぶコクが出ます。
  6時間・・・こってりとコクが出て小骨まで食べられるくらいになります。
  7時間・・・大きな骨まで柔らかくなってきます。
A 味噌をすり鉢でよくすって下さい。
  少し煮汁を加えてといてから少しずつ静かに鍋の回りのほうから加えます。
  隠し味に砂糖を加えます。(好みで入れなくてもOK!)
  ―30分〜1時間―
B 出来上がり。とっても熱くてこわれやすいので盛り付けるときは慎重に。
  盛り付けのとき、お好みで小口ねぎや山椒をのせてもよくあいます。
【鯉のあらい】
@ 包丁の背で頭を叩いて気絶させ内臓を抜く。
    苦玉(胆のう)をつぶさずに取り除くことが必要です。
A 3枚におろし、皮をひき、身を薄く削ぎ切りにします。
B 身を氷水に落とし、箸でかき混ぜること5〜6分。
◇上げてからし酢味噌で食べると美味しい。

■健康食品、鯉の薬効
常用されている食品の中には、薬効果を持っているものが多くあります。そのひとつに鯉があります。鯉は食用魚であるばかりでなく、長い食生活の中で薬用魚としての価値ももってきました。中国最古の薬物書「神農本草経」にもその効用が記載されています。鯉を食べると母乳の出が良くなるというのは周知の事ですが、婦人病、肝臓病の人にも欠かせぬ食べ物であることが解ってきました。また、糖尿病や皮膚病の治療にも良く、その他セキやぜんそくを鎮める効果もあり、痔やリウマチにも良く効くことが解ってきました。更に、疲労回復、動悸、息切れに効く強壮効果もあります。
良質のタンパク質。ビタミンB1、B2、E、Aが多く含まれている豊富なビタミン類。カルシウム、リン、鉄分も多く栄養価的にも申し分のない魚です。

 
参考資料 「薬用魚・コイの効用」久保 道徳著(ヘルス研究所)


■世界の鯉料理
●世界篇〜
中国では、黄河上流の難所、竜門を越えたものが竜になったという有名な「登竜門」の伝説があり、また背中の鱗が三十六枚一列に連なっているとされていたことから、六が吉数であった関係上《六六魚》と呼ばれる縁起物の魚でありました。『本草綱目』には、「諸魚の長」とあるように、今でもなんの前置きもなく「魚」といえばコイを指すほどで、「糖酷鯉魚」(鯉の丸揚げ甘酢あんかけ)は、日本人の間でも人気メニューの一つになっています。
一方大陸の彼方、ヨーロッパでもコイはよく食べられます。十字軍の遠征によってアジアからもたらされたのが十四世紀以降のことです。以来ドイツを中心に養殖がさかんになった。ドイツでは腹わたを取ってから、鱗をつけたまま丸ごとワインでゆで煮したものが祝宴に出されるほか、オーストリアでは骨と腹わたを除いて具を詰めた、《コイのつめ物の赤ワイン煮》が代表的なクリスマス料理の一つに数えられています。このように丸ごと料理されることが多いヨーロッパのコイは、「鏡ゴイ」あるいは「皮ゴイ」と呼ばれる鱗のほとんどない独特の改良種です。
日本では、中国からその高い評判と連れだって輸入されたのか、《海魚の王》マダイに対して《川魚の長》の座が与えられています。ただ、『徒然草』の兼好法師も「やんごとなき魚なり」というコイではあるが、腹部の第五のひれが別名「子とどめのひれ」と呼ばれることから、決して結婚の祝儀には出されない。このタブーは日本特有のものであるようです。
このほかに中国にないものとして、育つ水で味が上下するという考え方があります。室町時代以降にいわれ始めたことであるが、それによれば長流のコイが最上で、次に太湖、最も劣るのが池沼であるといいます。
事実、古書の中にも「池に久しくあるものは、肥て短く骨ふとく色土黒にして腹黄なり。味も泥気あり」との記述がみえます。確かに高冷地の流水で育ったものは、肉もしまってうまいのに比べると、低平なところのコイは幾分大味であるうえ、よく水にさらさないと泥臭いような気がする。日本人がこうした点を気にするのは、おそらく《洗い》や《なます》といった他の国々にない形で食べられるからでしょう。
煮込み料理にする場合、充分火を通せば骨や鱗までも食べられる。じっくりと煮込んだコイこくや甘露煮などは、舌のうえでとろけるような味わいがあり、あらいに劣らぬ人気を誇っています。
また味や栄養の面だけでなく、コイは古くからその薬効が注目されてきた魚でもありました。『本朝食鑑』をひもとくと、整腸、利尿作用が強調されているほかに、母乳の出がよくなるというので婦人に鯉こくをすすめることも多かったとのことです。さらに、血を強壮剤として用いることもあるという。実際の効果のほどは定かではないが、もともと「滝のぼり」伝説が残るほどかなり生命力の強い魚であったから、半分俗信のような意味合いも含まれていたのでしょう。


■鯉に関することわざ
●鯉の滝登り 立身出世することのたとえです。中国の古書『三秦記』には、黄河の中流にある竜門を、魚たちが争って登ろうとしていずれも失敗したが、鯉だけがこの急流を一気に駆け登り、天まで登って竜と化したとあります。これが「登竜門をくぐる」の語源ともなったそうです。
●俎上(まないた)の鯉 まな板の上で、いままさに料理されようとしている鯉のことで、絶対絶命のピンチにあって、自分ではどうしようもない運命をいいます。また、度胸がいいことにもたとえます。
●生贅(いけす)の鯉 生簑の中の鯉で、自由にならない身の上をたとえていいます。
●鯉のー跳ね 鯉は捕らえられると、一度だけ跳ねるが、まな板の上にのせられると、観念してじつとしているという意で、あきらめがいい、いさぎよいことをたとえていいます。
●浅みに鯉 手づかみでも採れる鯉のことで、もっけの幸いという意です。
●麦飯で鯉を釣る ちょっとの元手で大儲けすることのたとえで、「蝦で鯛を釣る」と同じです。
●及ばぬ鯉の滝登り いくら力んでみても、とても出来ないことのたとえで、鯉を恋にかけて多く使われます。
●鯉が躍れば
 泥鯖(どじょう)も躍る
鯉の跳ねるのを見て、泥鯖もその真似をするという意で、分不相応なものが、優れた人の真似をすることをたとえていいます。


■上杉鷹山と山形鯉
かつてアメリカの故ジョン・F.・ケネディ大統領は、日本人記者団の質問に「私が最も尊敬する日本人はウエスギヨウザンです」と答えました。 ところが日本人記者団の方が上杉鷹山という人物を知らず、「ウエスギヨウザンって一体誰だ?」とお互いに聞きあったというエピソードがあります。 ケネディが鷹山に関心を持ったのは、鷹山が嗣子治広に「伝国の辞」といわれる治世の訓を残しており、この英訳をケネディが読んでいたからです。
「伝国の辞」は「国家、人民は私すべきものではなく、人民のために君(藩主)があるのであって、決して君のために人民があるのではない」という思想を記したものです。事実彼の藩政改革はこの理念で一貫しています。
鷹山は彼が隠居してからの称号です。藩主として現職にあった時は治憲と名乗っていました。上杉家は謙信を先祖とする名門です。しかし関ヶ原の合戦で石田三成に味方したため、120万石の所領を30万石に減らされ、現在の山形県米沢市に封じられました。移封に際して上杉家では家臣団の人員整理を行わず、120万石のときの人員をそっくり新領地に連れていったため、狭い米沢の地の人口は急増し、かといって新しい収入源の開発も行われず、たちまちのうちに米沢藩の財政赤字は膨れ上がりとどまるところを知らなかったといいます。
治憲が領主になる頃は、領地は更に半分の15万石となっていましたが、そのうちの13万3千石が家臣団の給与総額でした。総収入の90%以上が人件費という経営状態だったのです。歴代の借金はかさみにかさみ、もうどこも貸してくれるところはなく、藩をそっくり幕府に返してしまおうと考える重臣もいたくらいの窮状でした。
治憲はこの絶望的な財政的危機を乗り越えるために、若い情熱の限りをぶつけて藩政改革に乗り出そうと決意したのです。
「私は米沢藩の民を富ませるための改革案を持ってきたが、この国に入って絶望した。この国には人々に希望がなく、そのために何もかも死んでしまっていたからだ。いかなる良策も受け入れる国の方が死んでしまっていては何にもならない。しかしこの灰皿の中の残り火を見ているうちにこれだと思った。この残った火が火種になるのだ。火種が次々に新しい火を起こしていけば火は絶えることなくやがて大きな炎となる。その火種は苦労して江戸からついてきてくれたお前達だ。いまその胸に燃える火をどうか心ある藩士の胸に移して欲しい。その火が必ず大きな改革の炎となるであろう。私は、いま、その想いでこの火を吹きつづけていたのだ。」
これを聞いた家臣達は感動しました。そして治憲が持っていた炭火を受け取り、それを一人一人が新しい炭に移しました。炭火は10倍にも20倍にもなりました。その後この火種を分けてもらい治憲と想いを一つにして改革に取り組んだ人々は火種組と呼ばれました。彼らは荒地を開墾し、桑を植え、機を織り、絹製品や漆器などの特産物を作り出し、米沢藩の財政を次第に立て直していきました。そして天明2年から4年間日本列島を襲った天明の大飢饉に際しても、藩内で1人の餓死者も出さずに見事に乗り切ったのです。
鷹山が振興した産業は、米沢織、絹製品、漆器、紅花、色彩鯉、そして笹野の一刀彫りと、現在でもすべて健在です。
1802年、上杉鷹山公が動物性タンパク質の乏しい山国米沢に、相馬から稚魚をとりよせ、米沢城の濠で育てたのが始まりです。家臣にも屋敷に池を掘らせ、養鯉を奨励しました。清烈な水で飼うので肉は締まり、川魚特有の泥臭さは全くありません。現在では米沢のABC(Aはapple、Bはbeef、Cはcarp)のひとつとされ、米沢牛、りんごと並んで代表的な特産品となっています


■武田信玄と陣中漬
−"山峡の国"の味の由来−
山梨県といえば甲斐の国。この由来は、山また山に挾まれた「山峡の国」の。"峡"に由来をもつとされています。事実、県の中央にあたる甲府盆地は、関東山地、南アルプス、富士山、八ヶ岳といった山々に東西南北をとり囲まれ、現在でも県の総面積の実に80パーセント近くを山林が占めます。
このようにあまり豊かとはいえなかった小国甲斐を一躍戦国乱世の表舞台に立たせ、以後もさまざまな面でこの地の人々からほとんど崇拝に近い念を得てきた人物。それが武田信玄です。
そこまで尊敬される理由の一つが、彼が軍事面だけでなく、民政の面でも類まれな才能を発揮した点にあるのは、知ってのとおりです。彼の名が冠されたものを少し挙げただけでも、信玄堤、信玄袋、信玄隠し湯と様々な方面に及んでいることからも、その存在の大きさが想像できます。
それは食の面でも同じことがいえます。とくに山梨の郷土食として今に伝わる料理の中には、武田軍の陣中食として取り入れられてから広まったものが少なくありません。
名前どおりの由来をもつと伝えられている信玄ずし、信玄塩辛、川中島合戦のときに鍋でご飯を炊いて食べた、という故事にちなんだ《陣中鍋めし》は甲府駅で駅弁として売られています。
さらに当時、占領地だった隣国信濃に目を移すと、佐久の《凍み豆腐》が有名です。


−陣中漬けはすぐれた保存食−
それとならんで、軍団の大切な栄養源になったと考えられる、この地方独特の料理が《鯉の陣中漬け》です。甲州のように海の幸に恵まれない地方では、川や池に棲む淡水魚が重要なタンパク源となりました。コイはその中でも味、栄養価ともに優れ、しかも大きいものになると一メートル以上に成長するものもあるため、様々なかたちで賞味されてきました。とはいえ、この貴重な川の幸を有効に利用するため、コイの保存の方法もいろいろと考え出されてきました。佐久鯉で有名な長野県の佐久地方では、生のまま丸ごとみそ漬けにしておいたものを、後で焼いて食べます。ですが、このやり方ではそう長くもちません。その点"鯉の陣中漬け"はかなりの長期保存に耐えられるだけでなく、そのまま食べられるという長所もあります。
作り方は、まずコイを三枚におろして切り身にします。このとき注意しなければならないのは、コイ料理すべてにあてはまることですが、〈苦玉〉と呼ばれる胆のうをつぶさないように気をつけながら取り除くことです。さもないと中の胆汁の苦い味が肉に移ってしまいます。そこで普通は、はじめに首のつけ根からうろこ三枚分のところを筒切りすると、緑色をした苦玉が顔をのぞかせているから、楽に取り出すことができます。
この切り身をから揚げにしてから、しょうゆとみりんをベースにしたたれの中に一、二日漬け込みます。あとは一度取り出してから布に包み込んで、水飴で溶いたみその中にさらに一ヵ月ほど漬け込んでおけばできあがり。中まで味がしみ通った陣中漬けは、このままご飯のおかずにしてもいいし、酒の肴にもなるが、味つけがかなり濃いのでお茶漬の具に添えられることが多い。これが戦国の昔から今日まで伝わったのは、栄養価が高く手軽に食べられるうえに保存もきく、という具合に良いことづくめであったからでしょう。
ところで、この陣中漬けが生まれたのは、『信玄の隠し湯』として有名な下部温泉郷だとされています。その名の由来は、川中島で、上杉謙信と一騎打ちのときに肩に傷を受けた信玄が、ここの温泉で治したという言い伝えによるとのことだが、甲州とその周辺には同じように「隠し湯」といわれる所が少なくありません。おそらくこれは、戦いに傷ついた武田方兵士のリハビリテーションに用いられたというのが本当のところでしょう。


−人心厚い理想のりーダー−
国全体の生産力がそれほど高くなく、他の国のように専門の職業軍人を数多く養うことのできない甲州では、戦力を確保するために、兼農の雑兵に頼らなければなりませんでした。大半が「パート・タイム」の武者からなる武田軍団は、決して恵まれた境遇にあるわけではありませんでした。それでいて、信玄の存命中に「無敵」の名をほしいままにしたのは、彼のリーダーシップがどれほど優れたものであったかを示しています。 さらにつけ加えれば、陰からその強さを支えていたのが、信玄ゆかりのさまざまな陣中食だったのではないでしょうか。それは実用面だけでなく、心理的な面からもいえることです。たとえば冬の夜に、厳しい内陸の底冷えの中で野営しなければならないときなど、甲州の武者たちは、陣中漬けや暖かいほうとうによって、大いに力づけられたにちがいない。
だからこそ、これらの料理はその後四百年余りにわたって食べ継がれてきたのです。
山梨では、「信玄」と呼びすてにするなどもってのほかで、「信玄公」と呼ばねばならぬとまでいわれています。彼がそこまで神格化される理由には、このように領民の生活の隅々にまで政策面から怠りなく気を配っていたからです。
その意味では、「心のゆとり」が叫ばれるこれからの時代にあって、信玄を理想のりーダー像として抱いていることが、大きくプラスとなるに違いありません。まさに、陣中漬けのごとく、味わい深いキャラクターの登場が待たれているのです。

COPYRIGHT (C) ABE-KOIYA CO.,LTD.RESERVED    shigeru@abe-koiya.co.jp